昭和54年12月27日   朝の御理解 ●②x2 ④   大坪かよこ

御理解第61節
 神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。



 教祖様のこのみ教えというものは、ここが頂きどころだな、と思うておると、その頂きどころが他にあったり、もう一点一画の中からでも、ははあ、ここが芯だなとおもうようなことがございますですね。
だからこそ、ま、合楽では何十年という間、この教典一冊を、説いても説いても説き明かすことが出来ないほどしに、深遠なものがあるということですね。
これはもうほんとに、驚くばかりです。
こちらの信心が少しでも進展してまいりますと、もう、その教祖のみ教えが、その進展した信心に合わせて下さるように、その深さに気が付かなかったということがございます。
だから、限りないもののようですね、み教えというものは。
だからこそ限りないおかげを話にして残しておくのぞ、と仰っておられる。
だからもちろん限りないおかげが受けられるというのですから、こりゃもう、あの、お徳を受ける話という意味なんですよね。
あの世にも持って行け、この世にも残しておけれるという、お徳のうけられる話ですから、もうこちらの構えというものが、お徳を受けるために、頂くという構えでみ教えを頂かんならんですね。
●④ 金光様のご信心は。ただおかげというこれは私の信者時代の、ま、体験ですけれども、朝のご理解を頂きます、頂いておるうちに、こうどこということはないけれども、なんか、ピンとこう感じるところがある、その朝のご理解の、あ、今日はこれだな、といったような、その、ま、フィーリングですね、だからその感じたところを一日の、お商売なら、お商売の上に、持ち続ける、もう、必ずおかげ頂くですね。
これはおかげを受けるということはそうです。
あの、おかげの泉なんかを読まれる方が、ただ、一ページだけでも読んで、そこから感じるとこがあったら、もうそれで良い、感じないなら、二ページ読んでみるが良い。
そして、あ、今日はこれで行こう、といったようなですね、そういう感じ方を持って頂い、感じるということは、もう既に神様と交流することですから、そのルートを辿って確かにおかげを頂けるです、ね。
けれどもその、限りないおかげとこう、おっしゃてるですね、今日は。
限りなくおかげ、尽きることのないおかげを頂ける、そういう話をしておくのぞとこう仰っておられる。
ということは、いわゆる、無尽蔵ということですから、ね、無尽蔵のおかげが頂けれる話を、このようにして残しておられるわけです。
だから、お話しの内容は、もう、だから、無尽蔵というても良いわけです。
ですからその無尽蔵のおかげの頂けれる話というのは、結局、言葉を変えると、お徳を頂くことのための話だということになるでしょうが。
ピンと感じた、ね、感じた、それを一日の実行させてもらうという、それを心にかけておくと、それが、神様との交流、一つのルートとなって、そのルートを辿っておかげが受けられるという、まぁ、頂きかたと同時にやはり日々、こうして朝参りをさして頂いて、皆さんがご理解を頂く、今日もお徳を受ける話を頂くんだという構えを作っての、いうなら、教聴でなからなきゃならんということです。
ね、今日は、ね、限りないおかげ、いわゆる無尽蔵、そのおかげのうけられる話を残しておくといわれる、そこんところに、ま、焦点を置いて聞いて頂こうと思うんですけれども。
昨日、大分の臼杵というころがありますね、臼杵市の志賀やさんという呉服屋さんで、もう、ずい分、七代も八代も続いた呉服屋さんらしいですね。
いわゆる老舗なんです。ある教会で熱心に信心しておられたんですけれども、あの、私は昨日初めて聞いたんですけれども、お母さんが一番初めにお参りなったそうです。
そして子供たちにみんな話されて、ま、一家を上げてそして、今、あの、八人乗りの車をわざわざ合楽参りのために買われたところが、もうそれでは、たりなくなった。
ほいでもちっと大きなのを買うたら、おおきので皆がお参りする人が沢山あるだろうけれどもと言うて、話しておられましたが、いわゆる、臼杵の地方に合楽の御ひれいが、こう広まっていっておる。
段々おかげを頂いておる、なおかげを頂いて、段々分かれば分かるほど、教徒としてのおかげを頂いておられたんですけれども、あの、今まで信心をなさっておられた教会の先生も、これは金光様のご信心というものは、やはりお取り次をして下さる先生に、帰依がなからなければおかげにならん、もう、うちの先生がまちっとどうかあってもらうとよかばってんと、思うようなことでは、おかげにならん。
今あんたがたが、合楽にお参りをさせて頂いて、あちらの先生に帰依がでけとる、でけていきよるということだから、奥さんと二人でそれをま、言われた、だから、あの、御霊様も全部ここから、合楽のほうへ移してもいいから、あちらでしっかり信心の稽古をするように、というふうに、ま、言われなさったそうです。
それで、ま、沢山な御霊様の、いわゆる、仏教でいうなら、過去帳ですかね、霊神名簿を持って見えて、そして昨日は、こちらでその合碑のお祭りと、年々先生には来て頂いて、その謝恩祭をしておられた、で、謝恩祭とその霊祭とを、一緒に慰霊祭をして頂きたいという願いがあっとりました。
そいで昨日、それができたわけです。
まぁ、家族も全部で見えられましたが、親戚の方、そして初めて私は、謝恩祭と慰霊祭と一緒にさして頂いたんですけども、遠いからわざわざ先生方に来て頂いてはというので、ま、みんなこちらに見えてなさいました。
ま、ここまでに到るまでにはまあ、色々と、ま、行きつ戻りつがあっただろうと思いますけれども、●② 私が御心眼に頂くのが、昔はお嫁入りをするときに、箪笥長持ちをこう、ね、幾さおも、沢山、あの、いのう、あれはなんちゅうでしょうか、あの嫁入り唄ですかね、唄を歌いながら、あの、行くでしょう、ああいう、あの様子を長持ちでもなからなければ、箪笥でもないけれども、これが、御霊様の持ち物だろうかと、ま、いうような感じのね、それもいっぱい機嫌の人たちが、こう、いのうて、こう、担いでやって来て、それがいっぱい機嫌だもんですから、それこそ行きつ戻りつ、こう、しておる、それで、あの、ま、こちらに到着したといったような感じのお祭りでした。
お祭りしたというようなことでした。
どういうようなことかと思いましたら、合楽にご縁を頂いて、合楽にいうならば、教徒としてのおかげを頂いたというても、また、合楽で謝恩祭をさして頂くというほどしに信心が進んでも、ね、ただおかげおかげという、いうならば、よか事ばっかりではない、それは、ちょうど、結婚のようなものだ、確かに目出度いことだと、有り難いことなんだけれども、結婚してそんなに良いことばかりということじゃ無い。
たまにはもう分かれようかと思うようなこともありゃ、ね、血の涙を流すようなことも起こってくるかも分からない。
それが人生でもありゃ、また、結婚なんだと。
合楽と縁が結ばれたというても、良いことばかりじゃないが、そこを、合楽理念に基づいて、ありがたく楽しゅう、やっていける腹がでけなければ、改式はでけないぞ、ということであった。
改式したから、良いことばっかりといったような、安易な気持ちではいけないよと。
●② ね、そして、あの、大きな万年筆の、こう、ポケットに、こう、あの、はさむところがありましょうが、あすこんところを心眼に頂いたんですけれど、これも、まんねん、ということは、何時何時までもということでしょうね。
いうならば、落とさないように、外さないように、いつも、ポケット、これに、いうならば、いつも、神様を心に頂いていくといったような信心精進をこれからしなければならないぞ、志賀家一家の上にも、また、志賀のうからやからの御霊様たちをも、いうならば、それこそ、万代までものとこう言われる、ね、何時何時まで物、合楽というなら、志賀家でなからなければならんというよなお知らせを頂いて、あの御霊様の方へ移ったんですけども。
●② 御霊様にご祈念中に、一如、じゃなかった、如意ということを頂きましたね。
如意、ごとく、いと。意の如くなるとこういう、ね、その私が如意ということを頂いたとたんに、もうそれこそ、ご神殿から、もう響くようなバーンガシーンというおいさみがあったんです。
私はもうあれだけのおいさみだから、したら、このその、もう、今日のあれがおいさみというのですかと、皆がこのお広前中に、聞こえるようなおいさみでした。
御霊様がいうなら、意のままになった、願いどうりになったということじゃないでしょうかね。
私は、ま、話したことでしたけれども、信心、いわば、特に霊祭なら霊祭をさせてもらうときに、ほんとに手応えがあるような信心をしなければいけないね、というたことでございましたけれども、皆さんでも日々こうやって、信心のけいこをなさるのですから、やっぱ手応えのある信心、手応えのある頂き方をしなければです、いうなら、今日言う、尽きぬおかげにつながるようなお徳にはならないです。
ね、何とはなしにもう、十年続いた、二十年続いったようなことではなくて、もうほんとに、私はその都度都度に、手応えを感じるような、それこそしびれるような感じというものが、私共に通うて来るような信心、おかげを頂かなければならない。
それにはね、ほんとに神様のやはり働き、またおかげというおかげを受けなければね、自分のいうならば実力にはなりません。
ね、ただおかげというても、ね、同じ事を千も万も、神様の働きと頂ける人とね、ただ、おかげ頂きましたちゅうて、一辺お礼まいりをすりゃ、それですんだといったような程度のおかげとがあります、同じことでも、ね、だから、こちらの信心の頂き方次第、金光大神はそれこそ尽きぬおかげの頂けれる話を残しておくという、その話を、私どもが聞いたら、そこに間違いのない神様の働きをいわゆる、実験実証さして頂いて、有り難いと思わなければ、ね、有り難いと思うほど、それが力になるんです。
ね、昨日、一昨日でしたか、高橋さん、お礼のあの、金銭の送り合わせのお願いがしてあった。
金額は、まあ、三百万あまりのことでしたけれども、もうそれがちゃと、当てしてあった金が、ところが、全部こう外れてしまった。
そこでまあ、あっちこっち、ま、その手配のできるところをしたけれども、全部駄目であった。
そいでその、それが、先方に払わないと、相手は倒産されるといったような、その大事な金を借り受けてあったもんですから、もうその約束の日には、でけるという当てした金があったんです。ところがそれが当てが外れて行った、次々みんな。
そいで、電話がかかって参りました。で、どこに、それを全部駄目でしたとこう言うんです。
ね、・・?もう先生二時間しかありません、とこう言うわけなんです。
ね、そしてもう行くとこは、当てはなか、とこう言うんです。
ね、ほい、自分も困るなら、今度は、自分が借っておった相手のほうも困ることですから、そりゃ、あんたおかげいただかにゃ、どんこんでけんけども、あと二時間しかない、というてまあ、あの、お取次ぎさせて頂いとりましたが、その晩がちょうどあの、感謝の夕べでした。
出て来とられましたが、私はどげんじゃったじゃろうかとこうおもうたばってん、お届けが何日もないですもん、で、あくる朝、ここでお届けがありましたけれども、もうほんとに当てもしないところで、その、二百、その三百万にちょっと金が切れるぐらいではありましたけれども、ちょうど、遊んだ金があるから使っときなさいという人があって、ま、お繰り合わせを頂いたということを、その翌朝、ここで聞かせて頂きましたが。
・・?皆さんでも同じですけれども、それはあくる日でも、あくる日でもいいばってん、その晩来とるけ、その晩ちょっと、あ、あのことはおかげ頂きました、とこう一言ぐらい言わにゃ、いかんですよね。
私もやっぱし人間ですけん、やっぱずっとお願いし続けとります。それそま、あくる日お届けがありましたけども、ね、当てしておったのが、でけた、おかげいただいたというのと、もう、当てするところがない、頼む所がない、お取り次を頂いた、もうあと二時間しかありません、これにたとえば、でけないならば、その相手が信用で貸してくださっとるに、相手が倒産しなさらんような、結果になります、というようなギリギリのお届けを、なのですから、そういうところでおかげを受けたというおかげのほうが、もう神様は間違いがないなという実感が強いでしょうが。
当てしとったところが、でけて、たとえば、無事に支払いがでけました、ということのおかげと、もう当てするところのないね、もう時間もない、切羽詰った、そこにお繰り合わせを頂けて、はあ、いつものことながら、神様の働きの間違いないことに恐れ入ってしまう、そこから初めて、恐れ入った信心がでける、それが繰り返し繰り返し、信心の稽古をさせて頂くということは、何と有り難いことかと、合楽にご縁を頂いて総代の御用まで頂いておるから、とんとん拍子でおかげを頂くというようなものじゃなくて、そういうところを通りに通って、確かなものにしたときに、初めてそれが、御神徳ということになるのです。
ね、だから、嫁入りしたからというて、結婚したからというて、幸せな事ばかりじゃ無いて、幸せじゃない、それこそ様々なとこも通らせて頂いて、そこをいうならば、おかげにして、一生終わらせて頂くときにです、様々な事があったけれども、そのあったこと、難儀な事の都度都度に考えてみると力を受けておったな、お徳を受けておったなーということになるのです。
ね、だから、教祖金光大神はそういう御徳の受けられる話を残しておられるのですから、そういうことをいとうてはならないことが分かります。
ただ、おかげを頂いたというだけじゃいかんのです。
当てしとったのが入ってきた、お繰り合わせといったような意味じゃなくてです、もう当てするところもない、もう時間もギリギリ、そこへ神様のお繰り合わせを頂けて、初めて神様の働きの間違いないということを、いよいよ、いうならば、実感することがでける。
それを繰り返して頂いていくうちに、いわば確信が生まれ、安心もほんとのものになってくるわけなんです。
ね、教祖金光大神はいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくと仰る。
だから、そういう、信心しとってもどうしてこんなことが、というのじゃなくて、そのこんなことがと思う、難儀な事、ね、困ったこと、ね、そのことのところをです、神様のおかげをもっておかげの頂けれる手立て、そういう道を教えておられるのです。
楽な道じゃないということ。ね、だからそれをです、ならば、神様の間違いない働きをいよいよもって、誰よりも深く広く実感させて頂けれる、いうならば、信心生活をです、私共は有り難いとおもわにゃいけんと思う。
それが力になる、ね、ですから、もうほんとにお話しというものは、ね、お徳を頂くことのためにね、今日もどういうお徳を頂く手立てを教えを頂くであろうかという、いうなら、構えを持って頂くかなきゃならない、おかげだけならば、毎日参ってこんでんよか、おかげの泉だけでもおかげ頂く、お話しをもう半分聞いて、ピント感じたら、もう、御理解頂かんでもう帰ってええ、はあ、これだと思うものを、一日の生活の支えにするというような、そこから神様との感じ合い、交流する、その交流するそれが、いわゆる感じるというルートを辿っておかげを頂けるもんだと。
けれども金光様のご信心はどこまでもね、おかげも頂かんならんけれども、お徳を頂くことのために、尽きぬ話を残してある、その尽きぬおかげの頂けれる無尽蔵に頂ける、そういうおかげの頂けれることの為には、お徳を受けなければならない。
お徳を受けるためには、今日のご理解のどこを頂いて、おかげじゃなくて、御徳にしていく生き方を、生活の上に頂いていこう、ね、信心生活の上に、いよいよ自分の血肉にしていこうという、そういう構えがいるように思います。どうぞ。